串本の街中より潮岬と灯台めぐり、そして、

串本の街中より潮岬と灯台めぐり、そして、

串本の街中より潮岬と灯台めぐり、そして、

 

和歌山県は紀伊半島の最南端にあたる串本から潮岬を訪ねました。
潮岬は串本の街とは砂州で結ばれた陸地となっている島であり、岬へ向かうには島の西側の海岸を行くようになるが、道のすぐ横が岩礁地帯が切れ落ちていて何となく不気味なのです。 

 

間もなく岬の突端に着くと、其処は、サッパリした芝生の広場が広がっていて、ドライブの疲れを癒やし、のんびりリとラックスできる場所でも有ります。
石の名盤には「本州最南端」という文字が書かれていて、地図を観ると確かに四国や九州を覗くと最も南の位置にあるのが判ります。

 

岬の先端に立つと、成る程、地球の丸さを感じるほどの太平洋の広がりが目に飛び込んできます。 しかし実際に、地球が水平線によって丸く見えるのは目の錯覚で、実際は人工衛星ほどの高さがないと地球のまるさは実感できないと、物の本で呼んだことが有りますが。
此の地、本州の最南端に位置する岬の灯台は、先端に真っ白い姿で立っていました。
この灯台は、珍しく賑やかな公園の一角にあり、灯台の一階部分には資料館や展示室らしい部屋もあり、自由に見学できるようになっています。

 

其れによると江戸末期、多発する海難事故に備えて江戸幕府は、外国の要人を招いて灯台建設を決めたそうです。
潮岬灯台と此の先にある大島の樫野埼灯台は、日本でも初期の頃にイギリス人技師・ヘンリー・ブラントンという人によって造られ、閃光灯の灯台としては日本最古のものといわれます。 

 

此方を見学した後、其の大島の樫野埼灯台に向かいました。 昔は串本節でも唄われている通り舟で行き来したらしいが、今は立派な二つの橋で結ばれています。 そして、此の樫野埼灯台の前には「エルトゥ−ルル号遭難地」として、記念館も併設されていました。

 

エルトゥ−ルル号というのは中東のトルコの軍艦で、明治の中期頃に此の地で台風に遭い遭難したとされます。 それは日本の要人に逢うべく遥々、トルコからの凡そ600人の使節団が訪れ、両国の友好を深めた後でこのエルトゥ−ルル号は日本を離れ帰路についたのです。 丁度其の頃、猛烈な台風に遭い、この串本の沖で沈没してしまうのです。 この時、懸命になって救助にあたったのが地元民であり、約一割の人々を助けたと言われます。

 

その後、日本とトルコとの間では、此の遭難事件が縁となって現在でも親密な関係が続いているといわれます。
串本の沖、熊野灘の厳しい海域は、本州最南端に立つ潮岬灯台と大島の樫野埼灯台は、今も其々の海域を照らし続けているのです。